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自他実現&啓発 Archive

何も作らなくてもクリエーターと言える?

最近、自分はクリエーターだけど、何も作らなくても、それはそれでいいかもしれない・・・と思ったりもします。

多くの人が、自分の話や主張を受け入れてくれる人を求めています。その事に気づいていますか?相手が何を言いたいのか、共感しようとしていますか?

それを受容し、うまく整理して、相手の頭の中がスッキリするように返答する。それって意外にも創造的な事だなと思い始めました。一般的な言葉でいうと、カウンセリングやコーチングですが。

でも、複雑に絡んだメッセージから大切な本質を抜き取り、情報を編集して相手に返してあげる過程というのは、結構クリエイティブです。


最近特に・・・各所で町おこしなどの企画が進む中で、会議がなかなか前に進まないなと感じることがよくあります。

意見の対立、価値観の違い。難しいですね。けど、同じ目線で正面衝突してるから対立しているように見えるだけで、実は「どっちも必要なのでは?」と思うアイデアが多々有ります。ほんのちょっと高い視点から俯瞰するだけで。

自分の信念の高さが低ければ低いほど、世の中には間違っていると感じる情報が増えていきます。その状態で議論していても、話しがかみ合うことはありません。

だから、俯瞰して、対立した立場をどちらも肯定し、賛同し、その後で、細かい微調整をすればいい。意見が対立したとき、後に残るのはほとんどが感情論です。高度なディベートのように論理的に相手に理解を求めている場面はほとんどないと感じます。つまり、感情が納得すれば、意外とどうでもいいことだったりします。


だから、この一見対立しているようで実は些細な問題を解決する作業というのは、まさに情報のデザインそのもの。クリエイティブです。

最近こっそりと・・・その部分を担当するのが面白くなってきました。

大きな信念が世界を広くする〜お釈迦様の言葉を借りて

  • Posted by: 悠家
  • 2011年11月19日 14:11

私は軽音楽をやっている関係でライブをしたりするわけですが、それは当然人前に出るという機会ができるわけです。ステージに立ち、時には照明を浴びる事も。一人で弾き語りをするときなどは特に、数十人の視線が自分に集まります。

が、私は別に人前に出るのがそれほど好きというわけではありません。必要だから人前に出る・・・というほうが正しいと思います。

それを考えたとき、お釈迦様の言葉を思い出して妙にしっくりとくる瞬間がありました。

お釈迦様の言葉
私の説法はこの指と同じだ。君はこの指を見るのではなく、指が示す方向を見なければならない。

私ではなく目的の方向を見てもらいたい

私は音楽を通じて、時には自分のこの感情を分かってもらいたいと考えたり、時には誰々のこんないい話しがあったよ、ということを伝えたかったりと、目的はいろいろです。でも少なくとも、注目されたいからやっているわけではありません。メッセージがある、伝えたいことがある、共感してもらいたい、という目的の為に、ステージに立つという方法をとっています。

音楽だけではありません。人前で話しをしたり、何かをお教えしたりするのも、目的があるからです。

お釈迦様の言葉を借りると、その「指」を注意深く見ても何も新しい発見は無い、ということです。ですが、お釈迦様が指差す方向に視点を移せば、実は今まで見えていなかったものが見えてくるかもしれません。それがメッセージであり、お釈迦様でいう「教え」です。

私の行為は「教え」などという高い価値のものとは違いますが、少なくとも、私のことを見ていただいても何の徳にもなりません。ただ、私が伝えたいことには、ある一定の意味があると考えています。もしかしたら時には、共感していただけることも、あるのかもしれません。

正論とのすり替え

もちろん世の中には、目立つ事そのものが好きな人もいますし、それはその人の生き方ですから、素晴らしいことだと思います。

ただ、どうしても納得がいかないことがあります。「人前に出て目立つ事自体が気持ちいい」という人が、その目立つ行為を無理矢理正論に置き換えるときです。政治にしても、何かの役員にしても、ただ注目されたいからやっている人が、「皆さんの為に」という美辞麗句を並べるのは納得がいきませんし、全く信用できません。むしろそれであれば、「私の事を注目してください」と言ってくれるほうがよほど信用できます。

ほとんどの人は自分のために行動をしていますし、それに気づいていないだけです。私も例外ではありません。私は自分のために生きています。仕事も趣味の音楽も、自分のためにやっている。ですが、それが時に人の役に立つ事もあります。それは結果論であり、あたかもそのために生きているように表面を繕うのは、あまり徳が高いとは思えません。

自分が見ている世界は全体のごくごく一部だけ

実は自分は、自分の狭い信念の範囲だけで世界を見ている。その事を客観的に気づく為にも、誰かの指そのものを注目するのではなく、相手がどの方向を指差しているのか、に注意するべきだと思います。その為には人の話しによく耳を傾け、心の状態を相手に合わせて一旦理解する・・・受容した後に自分の信念と照らし合わせ、実は自分が見ていなかった視点ではないか?と問いかける必要があります。

音楽のステージで、私のことを見ていただいても、あまり得られるものはありません。私を見て「自分よりもギターがうまい」と感じたら嫉妬心を覚え、「自分よりもギターが下手だ」と感じたら高慢になる、ただそれだけです。人と自分を比べても意味がありません。大切なのは、目の前にいる人がどんな世界を見ているのか、想像力を働かせて共感を覚えることだと思います。

そして、自分には見えていない世界を他人の視点を通してみるとき、とても新鮮な感動が生まれるはずです。自分の信念=正しいと思う範囲が広がるほどに、見えてくる世界は全然違ってくるということです。

クリエーター/アーティストのアイデンティティについて

  • Posted by: 悠家
  • 2011年9月10日 19:45

原点に帰ってきました。「意味を求めない行為を、自己責任において徹底的にやる」ということの大切さ。

同時に、社会的活動とクリエーター/アーティストとしての活動は必ずしも一致しないということが、改めてよく分かりました。

自分の中の整理を兼ねて・・・まだ見ぬ同じ悩みや苦しみを感じている人に向けて書かせていただきます。

私の周囲でもアーティスト色の強い生き方をしている人は何人かいらっしゃいますが、その色が強ければ強いほど、あることに悩む傾向があります。「見返り」についてです。

見返りは求めてはいけないと思いつつも、心のどこかではやはり期待している。人に認められたいし、褒められたい。時には金銭を得たいこともある。そして自分は自分らしく表現する、と思う気持ちとの狭間で心のバランスがとれなくなってくる。それはクリエイティブ/アートの結果に微妙な違和感を生み出してしまいます。

見返りのために活動することは悪い事だとは思いませんし、たとえば「仕事」というのは金銭を得る目的がありますから、それを否定することなどできません。

しかし、「表現する」ということを知ってしまった人にとっては、それだけでは心が満たされないのです。

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講師卒業

5年前に帰郷して以来、続けてきた高校の講師を、本日をもって卒業することとなりました。

この5年間、学校で得たものというのは、語りつくせません。
おそらくこの日記を、何人かの卒業生が見てくれることと思います。

多くの学びと思い出をくれた生徒たちに、心から感謝します。
ありがとう。

明日からは気持ちを新たに、自分の仕事をより高めていきたいと思います。

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生徒たちと触れ合う中で、僕はかなり沢山の事を学びました。
その中でも、これから人生を送る上で本当に重要なことがいくつかあります。

教えようと強く思えば思うほどに伝わらないこと。

伝えたいと思うなら、先に相手の話を聞くこと。

人の心を動かすのは、テクニックではないこと。

誰かをよりよい方向に変えたいと思ったら、まず自分が変わること。


教育現場にいた自分は、知識と技術を生徒たちに「教える」かわりに、心を「育む」ということを教わりました。

たった1人の教師が伝えられることというのは、本当にごくわずかです。
まして、高校という長いようで短い期間の中で伝えられることというと、本当に少ない。

だから、卒業したら終わりではないという思い、未来があるという思いが必要なのだと感じます。

「育む」というのは、その子の未来を信じていないとできない行為です。


卒業生の中には、
今も夢に向かって勉強を続ける子や、
もう早くも結婚して幸せに暮らしている子、
思う進路に進めず、落ち込んでいる子、
仕事が自分に合わず辞めて、今も自分の居場所を探している子・・など、様々です。

今、この瞬間に、みんなが「自分は幸せだ」と感じているかどうか、
それは分からないけど、誰かが決めた幸せではなく、
1人1人が自分にとっての幸せを実現して欲しいと思います。

自分にとって幸せな未来を強くイメージし続ければ、
必ず方法は見つかるはずです。


今日、学校で荷物を整理していたら、
4年前にみんなと作った映画のDVDが出てきました。
久しぶりに、見てみようと思います。

明るい社会のために何をする

  • Posted by: 悠家
  • 2010年9月 6日 13:22

プライバシー等の問題であまり詳しくは書けませんが、私が教えている授業では「メッセージ性のある作品」を作る事がちょこちょこあります。

最近取り上げるのは「公共広告」。何かしら公共性の高いメッセージを含んだ作品をつくって啓発活動を行うというような趣旨ですが、その中で子供たちが取り上げようとするテーマは毎年何かしら共通しているものがあります。

実感を伴わない知識

それは何かというと・・・「自殺」「いじめ」「虐待」など、直接的に人の体を傷つけるケースが想像されるテーマ。そして、大抵の場合、「自殺するところ」や「いじめられているところ」を絵に描いたり、映像で撮影したりといった直接的な表現をしようとすることが多いのです。

なぜそういう直接的な表現になるのか?生々しいからそういうのは作らないで、と単純に禁止するのは教師としては短絡的だと思うので、やはりその根本的な原因を考えないといけません。

一つには、しょちゅう話題にでる内容ではありますがやっぱりゲームや、テレビの影響なのかなと思います。

ゲームでは刃物で敵を切り刻むなんていうことは当たり前で、何の抵抗も感じないでしょう。かくいう自分もゲーム世代なのでこれ自体を否定することは難しいです。ですが、刃物で対象を傷つけるという表現が、実感は伴わない割にヴィジュアル的知識としてはしっかりある、そんな気がします。

ドラマや映画でも、人が死ぬというシーンはそんなに珍しくありません。バーチャル的には人が死ぬ、という事が身近になってしまっているのかも?

そういう意味では、あらゆる情報が簡単に手に入るかわりに、それらの重みはどんどん軽くなっているのかと想像できます。

それだけだと芸がないので

それともう一つ。単純にゲームやテレビの責任にするだけではあまり芸がありません。
大切なのはじゃあどうする?の部分です。いじめ、自殺、虐待が子供の興味の対象になるのは、何か他にも理由があるはずです。仮に自分がいじめられている経験がなくとも、何か心を動かされている経験があるんじゃないかと。

残念ながら私が考える程度ではそれが何なのかはわかりませんが、少なくとも、暴力そのものに目を向けるよりも、明るい社会のために何をするか?と
前向きに考えたほうが良さそうです。というわけで作品制作くの課題ではいじめや自殺そのものに目を向けるというよりは、「こんな楽しいことが増えたらいじめってなくなるよね?」とか、そういう発想で取り組んでもらえないか、とヒントを出したりはしていました。

やっぱりそれって難しいですけどね。子供の価値観を否定せずに方向転換させるというのは。でも、否定せずに良い方向に導く、というのは教育の大原則・・・って本には書いてありましたが。


写真は少し前に行われた、京都中小企業家同友会の40周年記念イベントの懇親会の、お料理が出される場所の写真(関係ない)

形はちがえど、同友会のメンバーも明るい社会を作るために努力をしています。



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