- 2011年11月19日 14:11
私は軽音楽をやっている関係でライブをしたりするわけですが、それは当然人前に出るという機会ができるわけです。ステージに立ち、時には照明を浴びる事も。一人で弾き語りをするときなどは特に、数十人の視線が自分に集まります。
が、私は別に人前に出るのがそれほど好きというわけではありません。必要だから人前に出る・・・というほうが正しいと思います。
それを考えたとき、お釈迦様の言葉を思い出して妙にしっくりとくる瞬間がありました。
お釈迦様の言葉
私の説法はこの指と同じだ。君はこの指を見るのではなく、指が示す方向を見なければならない。
私ではなく目的の方向を見てもらいたい
私は音楽を通じて、時には自分のこの感情を分かってもらいたいと考えたり、時には誰々のこんないい話しがあったよ、ということを伝えたかったりと、目的はいろいろです。でも少なくとも、注目されたいからやっているわけではありません。メッセージがある、伝えたいことがある、共感してもらいたい、という目的の為に、ステージに立つという方法をとっています。
音楽だけではありません。人前で話しをしたり、何かをお教えしたりするのも、目的があるからです。
お釈迦様の言葉を借りると、その「指」を注意深く見ても何も新しい発見は無い、ということです。ですが、お釈迦様が指差す方向に視点を移せば、実は今まで見えていなかったものが見えてくるかもしれません。それがメッセージであり、お釈迦様でいう「教え」です。
私の行為は「教え」などという高い価値のものとは違いますが、少なくとも、私のことを見ていただいても何の徳にもなりません。ただ、私が伝えたいことには、ある一定の意味があると考えています。もしかしたら時には、共感していただけることも、あるのかもしれません。
正論とのすり替え
もちろん世の中には、目立つ事そのものが好きな人もいますし、それはその人の生き方ですから、素晴らしいことだと思います。
ただ、どうしても納得がいかないことがあります。「人前に出て目立つ事自体が気持ちいい」という人が、その目立つ行為を無理矢理正論に置き換えるときです。政治にしても、何かの役員にしても、ただ注目されたいからやっている人が、「皆さんの為に」という美辞麗句を並べるのは納得がいきませんし、全く信用できません。むしろそれであれば、「私の事を注目してください」と言ってくれるほうがよほど信用できます。
ほとんどの人は自分のために行動をしていますし、それに気づいていないだけです。私も例外ではありません。私は自分のために生きています。仕事も趣味の音楽も、自分のためにやっている。ですが、それが時に人の役に立つ事もあります。それは結果論であり、あたかもそのために生きているように表面を繕うのは、あまり徳が高いとは思えません。
自分が見ている世界は全体のごくごく一部だけ
実は自分は、自分の狭い信念の範囲だけで世界を見ている。その事を客観的に気づく為にも、誰かの指そのものを注目するのではなく、相手がどの方向を指差しているのか、に注意するべきだと思います。その為には人の話しによく耳を傾け、心の状態を相手に合わせて一旦理解する・・・受容した後に自分の信念と照らし合わせ、実は自分が見ていなかった視点ではないか?と問いかける必要があります。
音楽のステージで、私のことを見ていただいても、あまり得られるものはありません。私を見て「自分よりもギターがうまい」と感じたら嫉妬心を覚え、「自分よりもギターが下手だ」と感じたら高慢になる、ただそれだけです。人と自分を比べても意味がありません。大切なのは、目の前にいる人がどんな世界を見ているのか、想像力を働かせて共感を覚えることだと思います。
そして、自分には見えていない世界を他人の視点を通してみるとき、とても新鮮な感動が生まれるはずです。自分の信念=正しいと思う範囲が広がるほどに、見えてくる世界は全然違ってくるということです。
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Comments:2
- 小池 民 2011年12月16日 12:02
私も「皆さんのために」よりも「儲けたいから」って言ってくれた方がよっぽどわかりやすくて信頼できるのになぁ~って思う事があります。
「環境のために」も結構怪しかったりします。
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悠家
2011年12月16日 16:14
いつもコメントありがとうございます。
そうですね!環境のために、というのは結構ここ数年、よく聞きますが、本当に論理的に分かっているかどうか、というのは僕には判断ができなくて・・・でも明らかなエネルギーの無駄をなくすとかいうのはある程度できますね。ちなみに僕は、信頼欲?が強いので、人からの評価が下がるのが一番嫌です。だから評価が上がることをして自分が気持ちよくなっています。